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赤穂段通

赤穂段通

日本の段通について

 

絨毯が最初に日本に入ってきたのは16世紀頃と言われている。まず、中国から, 次いで、中近東,インドから色彩豊かな絨毯が入ってきた。鎖国の時代であり、数はかぎられているが一部は京都の祇園祭の鉾の懸装品として今日まで残され,世界的に貴重な染織品の資料として高く評価されています。

 

17世紀末に中国から絨毯(パイル結び)の技術が渡来し,日本で絨毯を作る試みが九州の佐賀藩嘉瀬村扇町(さがけんかせむらおおぎまち)ではじまり、18世紀初期には綿糸による絨毯の生産がはじまった。しかし、それは限られた世界の人達のもので、一般に紹介されたのは明治に入ってからである。それでも段通は富の象徴として相変わらず限られた人達のみが手にすることが出来た。その後,赤穂や堺では輸出産業として隆盛を究めた時代があったが、その期間は短く日本経済の発展、第二次世界大戦は段通産業に壊滅的な打撃をあたへ300年の歴史を持つ日本の段通は日本人の生活に根ずくことなく消えようとしています。

 

赤穂段通 

赤穂で段通作りがはじまったのは赤穂の塩田と深い関係がある。赤穂の主要産業であった塩田作業は天候、季節に左右され,また,日常の塩田作業の間合いの時間を活用できる女性の手仕事として段通作りに着目した一人の女性が赤穂段通の創業を考えついたといわれている。赤穂で生産された塩を求めて赤穂に往来した佐賀藩の船が赤穂に鍋島段通をもたらしたこと。当時まだ非常に珍しかった中国の段通を目にする機会を得たこの女性の創作意欲を刺激したことにより1849年に試作が始まり1870年(明治3年)には商業生産に入ることが出来た。 

 

1898年(明治31年)には織機は100台に増え、また、その頃には天蚕、絹、羊毛を用いた絨毯も作られ、その一部は宮内庁に納められた。1915年には輸出も始まりこれから1925年頃までの10数年が生産のピ-クをむかえるが1937年には第二次世界大戦により原料の入手が困難になり生産を中断、戦後に生産が再開されますが最早機械織りの絨毯には対抗出来ず、また塩田と表裏一体の関係で発展してきた段通作りは塩田の衰退とともに同じ運命をたどった。 

 

近年、伝統文化の保存、継承のため市民グル-プによる赤穂段通の工房が設立され, 伝統の 復活に向けた地道な努力が開始された。唯ひとりの技術を継承している女性が高齢に達し伝統文化の消滅もさけられないこの時期に立ち上がった女性たちは伝統文化としての赤穂段通の再現に試行錯誤を積み重ねている。(文:竹原伸爾) 

 

本赤穂段通

十文字唐草文様 サイズ:80×183cm 素材:綿糸 原産地:日本 兵庫県 赤穂 年代:約80-90年前

藍の部分が日焼けし少し薄くなっています。

    ¥55,000価格
    消費税込み
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